正しいこと

経験を積んだ女性の話は社会において大抵正しいとは思うが、同時に経験を積んだ女性のような人間関係を重視するしか楽しめず生き残れない社会的弱者の意見が正しいとされないような社会は絶望的でもあるとも思う。

社会貢献

 自分は社会に貢献したいことになっている。社会人としては当然だ。「あなたは何のために仕事をしているのですか。」と問われたら「はい、社会に貢献するためです。」と間髪入れずに答えることができるのが勤務時間中の自分だ。もちろん頭の中まで本気で社会に貢献したくてたまらない状態である必要があるし、その行動は常に最大多数の最大幸福を考えたものでなければならないし、誰かからの「ありがとう」の一言でやる気が出るのだ。

 だが勤務時間外の自分は社会など消えてなくなればいいと思っている。民主主義になったものの、社会は権力(過半数の意見又は金、権威、外見、家柄並びに人脈等権力の強さ)の都合のいいように作られており、その前提において自分は現在権力を持つ立場と言い切れないことに加え、今後の権力を得る見込みは絶望してしまうほどに小さいにも関わらず貢献することを社会は権力で強制するからだ。またどれほどきれいごとを叫んでも結局権力に負ける理不尽な社会や人間が嫌いだからだ。そして更に嫌なのは自分がそんな人間の一人であり社会人とみなされる立場にあることだ。

 こんな感じでジレンマを作ってみたが、だからなんだと思う。ただひとつ思えるのは気分がすっきりした。

 

正しさ

言語で正しく何かを表現し伝えようとすると、困惑する。
例えば、「りんごは赤いよね」。世間では理解されうる表現だと思うけど、赤を理解できない視覚を持つ人のことを考えた上での表現なのか、自分にとっての「赤」の意味と相手にとっての「赤」の意味が同じなのか、「りんご」を「林檎」としなかった理由は何でありその理由は「りんごは赤い」と表現した背景において適切なものなのか、「りんごは赤いよね」と同感を求める自分は自分の中では正しいけれども相手にとっては正しいのか、など様々なことを思うことがあるため、時々困惑する。
正しさとは何だろう。戦争の実行に絶対反対することだろうか、法律を守ることだろうか、神を信じあるいは信じないことだろうか、演繹的に帰納的に導かれる結論だろうか。郷に入っては郷に従えというように、正しさはいくつも存在し、時として対立する気がする。絶対的な正しさはないと言い切りたいけど、それを言い切るのは絶対性を認めることではないか。
だから正しく表現しようとすると困惑する。誠実に伝えたいのだけれども、誠実さも正しさのひとつに挙げられるから、何かを言い切れないのだ。ただそれはそれで、自分を守っているだけにも思えるけれども。