やりたい

男という前提なら数多くの女性とやりたいだけなのかもしれない でもその説に任せて自分より不運だった人により不運を実感させるのはどうかと思う
かといって自分より幸運な人には取り付く島がない
ということは狙うなら自分と同じくらいの運の人を狙えばよいのだろうけどそれはどうすれば判断できるのか分からないし狙うべきなのかも分からない

リア充

経済学部にいたにも関わらずケインズの「わが孫たちの経済的可能性」というエッセイの存在を知ったのは大学生を卒業してからしばらく経ったつい最近のことだった。
昨今の若者にとってリア充は憧れだ。多くの場合その言葉は恋愛を行うパートナーがいることを指すが、広義として日々の営みが充実していることも表現できる。
僕も早くリア充(狭義)になりたい、と妖怪人間なんとかさながら思ったものだったが、同時に羨望の念を拗らせてリア充死ねとダークサイドに落ちることが日に1440回はあったものだ。
ケインズはそんな狭義の非リア充にとってケインズは学問で充実している感を、つまり広義のリア充を自分に味あわせてくれる存在だった。彼の説いた有効需要創出の原理を知りそれをリアル世界から読み取る行いは自分にとって充実感そのものだった。同時にそれが自分の異性からの需要のなさを裏付ける行いであったということに薄々気付いていたとしてもだ。
冒頭に挙げた彼のエッセイを読んだのも彼の考えへのそんな興味からだ。だが今回は私の広義のリア充を味あわせてくれなかった。というのも、彼もリア充に価値を置く存在だったからだ。
「それ(金持ちや高利貸翼賛が資本蓄積を実現するための方便でない時代)が十分に終われば、尊敬されるのはいまを充実して生きられる人物だ」
このエッセイは近年の社会を百年程度前に予言していた内容として名高い。それをひしひし感じた大晦日だった。

正しいこと

経験を積んだ女性の話は社会において大抵正しいとは思うが、同時に経験を積んだ女性のような人間関係を重視するしか楽しめず生き残れない社会的弱者の意見が正しいとされないような社会は絶望的でもあるとも思う。

社会貢献

 自分は社会に貢献したいことになっている。社会人としては当然だ。「あなたは何のために仕事をしているのですか。」と問われたら「はい、社会に貢献するためです。」と間髪入れずに答えることができるのが勤務時間中の自分だ。もちろん頭の中まで本気で社会に貢献したくてたまらない状態である必要があるし、その行動は常に最大多数の最大幸福を考えたものでなければならないし、誰かからの「ありがとう」の一言でやる気が出るのだ。

 だが勤務時間外の自分は社会など消えてなくなればいいと思っている。民主主義になったものの、社会は権力(過半数の意見又は金、権威、外見、家柄並びに人脈等権力の強さ)の都合のいいように作られており、その前提において自分は現在権力を持つ立場と言い切れないことに加え、今後の権力を得る見込みは絶望してしまうほどに小さいにも関わらず貢献することを社会は権力で強制するからだ。またどれほどきれいごとを叫んでも結局権力に負ける理不尽な社会や人間が嫌いだからだ。そして更に嫌なのは自分がそんな人間の一人であり社会人とみなされる立場にあることだ。

 こんな感じでジレンマを作ってみたが、だからなんだと思う。ただひとつ思えるのは気分がすっきりした。

 

正しさ

言語で正しく何かを表現し伝えようとすると、困惑する。
例えば、「りんごは赤いよね」。世間では理解されうる表現だと思うけど、赤を理解できない視覚を持つ人のことを考えた上での表現なのか、自分にとっての「赤」の意味と相手にとっての「赤」の意味が同じなのか、「りんご」を「林檎」としなかった理由は何でありその理由は「りんごは赤い」と表現した背景において適切なものなのか、「りんごは赤いよね」と同感を求める自分は自分の中では正しいけれども相手にとっては正しいのか、など様々なことを思うことがあるため、時々困惑する。
正しさとは何だろう。戦争の実行に絶対反対することだろうか、法律を守ることだろうか、神を信じあるいは信じないことだろうか、演繹的に帰納的に導かれる結論だろうか。郷に入っては郷に従えというように、正しさはいくつも存在し、時として対立する気がする。絶対的な正しさはないと言い切りたいけど、それを言い切るのは絶対性を認めることではないか。
だから正しく表現しようとすると困惑する。誠実に伝えたいのだけれども、誠実さも正しさのひとつに挙げられるから、何かを言い切れないのだ。ただそれはそれで、自分を守っているだけにも思えるけれども。