リア充

経済学部にいたにも関わらずケインズの「わが孫たちの経済的可能性」というエッセイの存在を知ったのは大学生を卒業してからしばらく経ったつい最近のことだった。
昨今の若者にとってリア充は憧れだ。多くの場合その言葉は恋愛を行うパートナーがいることを指すが、広義として日々の営みが充実していることも表現できる。
僕も早くリア充(狭義)になりたい、と妖怪人間なんとかさながら思ったものだったが、同時に羨望の念を拗らせてリア充死ねとダークサイドに落ちることが日に1440回はあったものだ。
ケインズはそんな狭義の非リア充にとってケインズは学問で充実している感を、つまり広義のリア充を自分に味あわせてくれる存在だった。彼の説いた有効需要創出の原理を知りそれをリアル世界から読み取る行いは自分にとって充実感そのものだった。同時にそれが自分の異性からの需要のなさを裏付ける行いであったということに薄々気付いていたとしてもだ。
冒頭に挙げた彼のエッセイを読んだのも彼の考えへのそんな興味からだ。だが今回は私の広義のリア充を味あわせてくれなかった。というのも、彼もリア充に価値を置く存在だったからだ。
「それ(金持ちや高利貸翼賛が資本蓄積を実現するための方便でない時代)が十分に終われば、尊敬されるのはいまを充実して生きられる人物だ」
このエッセイは近年の社会を百年程度前に予言していた内容として名高い。それをひしひし感じた大晦日だった。